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「黒ワニとハーモニカ」別館 バンダイがマーズジャケットをプラモにしてくれるのを待つ日記

ロボットアニメをわりと好むヲタによるブログ。 たまに少しだけ防衛問題について喋ったりもします。 あとパワードレッド・ドレッドノートHのプラモ化と、コトブキヤが有澤の雷電をプラモにしてくれるのも待ってます。

「日米安保体制の歴史」第3回

第1章第3節「講和条約締結と日米安保の成立」
 
●ダレスの登場と池田勇人の訪米
 講和条約が前方展開問題をめぐり息詰まる中、トルーマン大統領やアチソン国務長官が問題解決のため対日講和問題担当として1950年4月、国務省顧問に任命したのがダレスである。この頃「中国失陥」をめぐる共和党の批判は強まる一方であり、講和問題という重要なテーマが「反共ヒステリー」の餌食にならないためにも共和党員であるダレスを採用することで政治対立を越えた超党派体制で望むという配慮が背後にあった。
 また彼を自分の顧問として任命したアチソン(さらにマッカーサー)は早期講和論者であり、アチソンのダレス指名は国防総省を妥協させることもその1つの狙いであった。
 実際にダレスは着任から3週間もしないうちに対日講和に関する覚書を作成し、「占領軍の漸次的減少、占領改革の意地、無賠償」を規定した平和条約を結び、安全保障については別途、予備会議参加国すべてを含む取り決めを結ぶという案を提出した。
 会議は1950年夏~秋に設定されており、ダレスが早期講話論に傾いているのは明らかであった。
 さらにダレスの就任と平行して日本側でも講和促進に向けた動きが見られた。同1950年4月、池田勇人蔵相が吉田茂の使節として以下のような提案を携え訪米したのである。
 
「吉田内閣は、もとより多数の国が講和に加わることが望ましいけれども、感情的に日本を敵視している国までが参加する時まで占領を続けられることは耐えがたい。現在望み得る最善の講和をできるだけ早く獲得するという以外に独立への道はない。(中略)
自分は吉田総理大臣からの伝言として、次のことをお伝えしたい。
<日本政府はできるだけ早い機会に講和条約を結ぶことを希望する。そしてこのような講和条約ができてお、おそらくはそれ以後の日本およびアジア地域の安全を保証するために、アメリカの軍隊を駐留させる必要があるであろうが、もしアメリカ側からそのような希望を申し出にくいのならば、日本政府としては日本側からそれをオファーするような持ちだし方を研究してもよろしい…>」
 
 また池田はアメリカ側にソ連は「アメリカよりも先に寛大な講和条約」を提示して日本の気をひくかもしれないと述べ、ソ連の先を制して寛大な講和条約を提示することをさかんに勧めた。
吉田は再軍備はいつか「われわれの暮らしが元に戻れば自然と」行われるようになるだろう、「それまではアメリカ軍の手に委ねる」と語り、池田訪米から半年後に行われた選挙の中で「再軍備再軍備と言うが、再軍備をしたら軍艦一隻つくっただけで国民生活はひっくり返る。戦前、財政の大半は軍事費に使っていたため民生は圧迫された。*今日再び同じようなことをしたら日本はつぶれてしまう。陸海軍をつくって不完全な軍備をすれば、かえってエサを出して外国の攻撃をつっているようなものだ。外敵には安保条約でこれを守り国内の治安は保安隊がやる。これで筋が通っているわけだ」と述べたように、日本が再軍備の負担を背負ったり、アメリカを疎遠にすることなしに国際社会に復帰することを願っていた。
 
●朝鮮戦争の勃発とNSC60/1
 そしてその後の1950年6月、ダレスが日本を訪問し吉田首相などと会談した。
 この時吉田はダレスとの会談で彼を喜ばすようなことは言わなかったらしく、「日本は国際間の嵐がいかに激しく吹いているかを知らないで、のどかな緑の園生にいるという感じ」だとダレスは感想を述べた。果たしてダレスのこの不満を裏付けるように、6月25日突如として北朝鮮軍が大挙36度線を越え、韓国に攻撃をしかけた。朝鮮戦争の勃発である。
 ダレスはこれによって日本人が共産主義の脅威に目覚めるようになることを期待し、この機会を利用して講和を促進すべきだとアチソンに進言した。この進言は受け入れられたが、そのためには軍部の説得が必要不可欠であった。
 妥協のためにマッカーサーの見解などもふまえた上でダレスが出した結論は、アメリカが「欲しいだけの軍隊を、望むところはどこであれ、望むだけの期間維持する権利」を与える日米間の協定を作るというものであった。この線にそって国務省と軍部の意見の調整は進み、1950年9月8日、トルーマン大統領は上記の内容を講和交渉を進める条件について両者の合意を記した政策文書NSC60/1として承認した。
 これをうけて9月14日、トルーマン大統領は記者会見で極東委員会12ヶ国と対日講和について非公式の討議を開始するよう指示したことを明らかにした。 
 
●日本政府の講和準備
 新聞報道などで伝わるアメリカ政府の動きを見て、吉田首相と外務省は有識者や旧軍人などとの協議もふまえつつ、日本側の講和準備作業を本格化させ、安全保障及び再軍備をめぐる交渉原案としてAからDまでの4つのテキスト案が制作された。
 要約すると各原案は以下のようになる。
 
A作業 国際連合への安保完全委託論
B作業 アメリカ軍が講和後も駐留する場合の日米協定案
C作業 日本の非武装継続を想定した案
D作業 反共を明確に打ち出し、アメリカとの一体化を表明した案
 
 D作業はA作業に対し、過度に理想的すぎるとして吉田が再検討を命じた結果制作されたものであり実際の交渉のベースとなったのもこれであった。
 
●吉田-ダレス交渉
 当時の日本の指導層の関心は、アメリカがどの程度日本に対して再軍備を求めてくるかという点にあり、平和条約後の米軍駐留継続はほとんど前提視され、それが望ましいと考えられていた。このように日本側が講和準備を進める中、ダレスは「講和7原則」と呼ばれる対日講和原則を提示し、関係各国との調整にあたっていた。
 そして1951年1月、その調整の一貫として日本およびフィリピン、オーストラリアを訪問した。日本にとってダレス訪日は自らに有利な平和条約を実現するため日本側が利用できる数少ない機会であった。*2
 一方ダレスにとって第一の問題は「われわれが希望するだけの軍隊を、希望する場所で希望するだけのあいだ、駐留させる権利を得ることができるかどうか」であった。そして朝鮮半島では人民解放軍の介入の前にソウル再放棄を強いられるという著しく不利な戦況の中で会談は始まった。
 前述のように会談は米陣営への参加を明記したD作業に従って行われたが、一方で吉田とダレスの国際情勢認識には小さくないズレがあり、再軍備問題などもあって交渉は難航した。
 米側関係者がきわめて緊迫しており、ソ連の対日侵攻もありうると考えていたのに対して吉田は対日侵攻はありえないと考えており、脅威はヨーロッパにあると思うとも述べていた。
 さらに再軍備問題では吉田はそれ自体に異論を唱える再軍備全面反対論者というわけではなかった*3ものの、弱体な経済と一般国民の反対のために「性急な再軍備」は望ましくないと主張し、ダレスを激怒させた。
 この埋まらない溝に対してダレスは双方で意見を調整することを示唆し、2月1日から6日まで4回にわたり事務方の折衝が行われた。
 この間日本側は吉田の了承のもとに国連憲章第51条に基づく集団的自衛権を根拠とする米軍駐留案であるB作業文書を提出、米側を「提案はヘルプフルである」と喜んだが同時に執ような「ある程度の地上部隊」の設置を迫り、日本側はこれに対して5万人の軍隊を創設するという覚書を渡した。
さらに駐留軍の地位協定をめぐり何度かのやり取りを経た後に後日の行政協定によることで落ち着き、ついにサンフランシスコへの道が開かれることになる。
 
●極東条項と安保体制の成立
 果たしてこの講和交渉は秘密に取り交わされた再軍備の約束が後の防衛問題に少なからず好ましくない影響を与えてしまったものの、大筋では日本側は成功と呼べる結果を残せたと満足していた。西村条約局長は
 
「先方は当方の希望を良くいれてくれた。希望どおりにならなかった点はただひとつといっても過言ではない。それは、わが原案が"日本は米国軍隊の駐留に同意する"といったのに対して、先方は"米国軍隊の駐在を日本は要請し、合衆国は受諾する"と案を出し、さらにわが方は"両国は米国軍隊の駐在に合意する"と対案をだしたのに対し、"日本は要請し、合衆国は同意する"を維持したことである」
 
と述べている。
 つまり米軍の日本駐留について、日米双方の利益になるからそうするのだという建て前にならなかったのである。
 さらに9月までの講和会議までの交渉で、いくつか日本側の交渉担当者の意に沿わない変更が加えられた。そのうち最大のものは、いわゆる「極東条項」なるものである。
 もともと2月の段階で合意された文言では、日本が米軍に日本駐留の権利を供与したことに関し、「この措置は、もっぱら外部からの武力攻撃に対する日本国の防衛を目的とするものであって」とあった。ところが4月に「この措置は、外部からの武力攻撃に対する日本の安全保障に
貢献することを目的とするものであって」と修正され、それがさらに7月「この軍隊は、極東における国際の平和及び安全の維持並びに1又は2以上の外部の国家による教唆又は干渉によって惹起された日本国の大規模の内乱及び擾乱を制圧するため日本国政府の明白な要請に応じて与えられる援助を含み、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」と修正されたのである。
 この結果在日米軍による日本防衛の確実性が条約文面から消えてしまうことになり、事務当局を大いに悩ませたが、ともあれ実質には日本の安全保障を担保するための米軍駐留を求めつつ講和を早期に達成するという吉田の目的は大筋で達成されたのであった。
 1951年9月4日、サンフランシスコで対日講和会議が開催され9月8日、対日平和条約に49カ国が調印した。同じ日吉田は日米安全保障条約に調印、ここに現在まで続く日米安保体制が成立した。 
 
●初期日米安保体制の特質
 しかしここまで見てきたように、成立当時の日米安保体制とは米国への安保委託(後に言う「安保ただ乗り」)を目的とする日本側の要求と、アジアでの共産主義封じ込めのため前方展開の根拠地を求める米国の要求の一致の産物でありいわば物々交換のための取引協定であった。
 そこでは脅威に対する共同対処といった本来の「同盟」的な要素はほとんど考慮されておらず、日米間の安全保障協力を明文として定めたものは実質的に安保条約の条文が唯一無二のものであった。
 日本側はそもそも貧弱な国力を背景とした安保の米国委託が条約締結の目的であったがゆえに安保協力の推進に対して必然的に消極的であったし、米側もまた戦争の後遺症が癒えない貧しい弱小国でしかなかった当時の日本に対してことさら防衛負担の拡大を求めようとはしなかった。*4
 従ってこの安保体制が「同盟」と呼ばれることはなかったし、それが意味するところについて問題視されるようなこともなかった。
 日米間の首脳が公式に安保体制を「同盟」と表現し、両国間の防衛負担格差が問題となるのは日本が経済成長を遂げ英米仏などと並ぶ大国となったおよそ30年を経た後のことである。

(第1章第3節終わり)
 
次回第1章第4節
「吉田茂下の再軍備政策」
に続く
 
 
参考資料
「安全保障 戦後50年の模索」 田中明彦、1997
「日本外交史概説」 池井優、1986年
「日米同盟半世紀」 朝日新聞社、2001
「戦後日本外交史」 五百旗頭真、2002
「日米関係とはなんだったのか」 マイケル・シャラー、20044
* 事実、戦前の財政史において軍事費の対総支出率が20%を割り込んだことは
戦間期を含めて一度もなかった。
 
*2、だが実際には当時の外務省条約局長西村熊雄が述べたように厳密な意味での
交渉ではなく、相談であり日本側の立場は(当然と言えば当然であるが)弱いものであった。
沖縄・小笠原返還を条件付でも良いとして望んだ日本側の要求をあっけなく一蹴した
ダレスの態度が典型的にそれを現している。
 
*3 会談前の10月5日の会合で吉田は「ダレスは日本に再軍備をさせたいとの気持ちを
言外に大いににおわしていた。
が、自分は条約前は再軍備はいやだとの建前をとる。実際には再軍備になろう」と
語っており、軍関係者にも「日本の再軍備というても一朝一夕でできる仕事ではない。
立派なものをつくるためいは、事前からよく研究し準備しておかねばならぬ。それについても
御力添えをお願いする」と語っていた。

*4 実際には防衛努力拡大への圧力は絶え間なく続くが、少なくとも日本側の
「防衛力漸増」方針を崩すほど強いものではなかった
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