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「黒ワニとハーモニカ」別館 バンダイがマーズジャケットをプラモにしてくれるのを待つ日記

ロボットアニメをわりと好むヲタによるブログ。 たまに少しだけ防衛問題について喋ったりもします。 あとパワードレッド・ドレッドノートHのプラモ化と、コトブキヤが有澤の雷電をプラモにしてくれるのも待ってます。

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「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」 富野由悠季

クロスボーンと並んでGジェネFで一気に知名度が上がり、凄まじく黒い展開かますことで知られる作品。
 
●Ξガンダム&ペーネロペーの原作版、やっぱりこれは小説の1枚絵の中でこその絵だよなー。
つかGFFのカトキアレンジより前、GジェネFの時点ですでに(元のデザイナーの手で)変わってんだな。
 
●「ギギ・アンダルシアという少女を、ケネスが好感できるのは、ギギの存在の重さの部分で、情緒的な性質のものではない。理性で受けとめられながらも、直感的であって生理的なものではない、ということだ」
これを電撃なり富士見なりスニーカーなりの応募でよこしたら確実に一次選考で真っ先に落とされるだろうというくらいまったく日本語になってないんだが、なんとなく言わんとすることが漠然と分かるような分からんような気分にならんこともない。
つまり端的に表現するならば実にオーガニック的というやつである。
…富野を表現する時に便利でいいな、これ。話としても好きだがこの形容を発明してくれたという意味においてもブレンパワードは素晴らしいと言えよう。
   
●街の人々の「どうしてマフテイーはハンターをやらないんだ」「今朝の空襲だってキンバレー隊のほうが酷かったんだぜ?」という声に安心するが、連邦の軍人たちに会えば「所詮奴らはテロリストだ」「無関係の人間を300人以上も殺している」という厳しい現実を突き付けられてそのジレンマの重さ(これはこの作品全体を通して続く)に悩まされ、ギギに会ったばかりにケリアに冷たく当たって「こんな欲望から抜け出さないと俺は救われないぞ」と酷く自分を嫌悪し…とひたすら陰々鬱々としてる。
 キンバレー隊の虐殺を前に一瞬自分のやっていることの正当性の是非を忘れたり、「死臭をかいだあとにケリアのことで思い悩む」自分に唾棄したい気分になったりとハサの心情がやたらと生々しい。
鬱鬱言われる作品であり実際まったく鬱だが、この鬱さは浅井ラボや秋山瑞人のような「派手でエキセントリックな鋭い毒針」的鬱さではなく、「静かだが暗く重く淀んだ毒霧」的鬱さという感じだろうか。
最後の処刑ですら、「みんなうまくやれたんだ、僕だってちゃんとできるはずだ」と"悲しいくらいさわやかに"執行されていくあたりがその具体例だろうか。
 
●ちょっと書くのがはばかられるギギの暴言すげえ。

●最期を迎えても両親より先立つ不幸やアデレード爆撃で巻き込んだ民間人のこと、ケリアに会えなかったなetcと考えなければいなければならないことはほとんどすべてしっかり覚えているような男がなんでテロ屋なんぞになってしまったんだろう。
この「自分のやっていることは本当に正当性があるのか?」という苦悩は同じテロリストのガトーやキラにはというか、ガンダム世界の反権力派には見られない自覚(特にガトーは自分たちのコロニー落としで何人の民間人が巻き添えを食って死ぬのか?などということはまったく念頭に無かった)であり、それに思い悩むハサの姿が俺は好きなのだが。
 
●連邦のガチの腐敗ぶりはなんともはや。
テロ予告を受けておきながら陽動ひとつ受けただけで完徹するも嫌がる軍隊って。
実質最高責任者のケネスですらも心底うんざりさせられるのも本当にわかる。
 
●ケネスの最後の心情描写はあまりにも無惨。
友人を処刑するはめになって「実父のブライトにやらせるよりマシか…」と自分に言い聞かせつつ、遅れてやってきたブライトを前に本当に必死になって平穏を装い、ギギを鬼の形相で追い返してハサ処刑を穏便に済ませたと思ったら、うっかり自分が口を滑らせたばかりにマフティー=ハサを公表される。
もはや言葉を失い、深く深く沈んだ表情を浮かべるケネスの姿は……
 
●そして処刑シーンの短いハサとケネスのやりとりが泣ける。
俺の中では「鬱展開」「泣ける話」といえば閃ハサが文句なしの1位です。
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「健康帝国ナチス」 ロバート・N・プロクター/宮崎尊

ナチス政権下におけるドイツの厚生政策について述べた本。
 
「国民の健康に関するナチスの業績に焦点を当てた本書の目的は、「善は悪からも生じうる」といったような陳腐な結論をでっち上げることではないし、ナチス・ドイツの名誉を復権させることでもない。すでに充分に立証されているナチスの残虐行為から目をそらそうとしているのでもないし、ジェームズ・ワトスンが(西ドイツのバイオテクノロジー研究を軌道に乗せるために)主張したように、「ヒトラーは過去のものとする」ことが目的でもない。
 本書の目的は、ドイツの科学と医学のナチ化は、一般に思われているほど単純なものではないと示すことである。ナチス・ドイツの科学史は強制断種の歴史であると同時に薬草両方の歴史であり、大量虐殺による「淘汰」の歴史であると同時に公共の場所での禁煙の歴史でもある。メンゲレの犯罪は忘れられないが、と同時にダッハウの囚人に有機農法のハチミツを作らせていたことや親衛隊がヨーロッパのミネラルウォーターを買い占めていたことも忘れてはならないと思う。
残虐と凡庸と、この両方がカギである」
 
 これは本書の最後の章の全文引用でであるが、筆者の主張はこれにすべてが集約されていると言っていい。
「実はナチも悪いことばかりではない」でも「実はナチはやっぱり大悪党」でもなく、まさに「両方がカギ」なのである。
 
 ナチスと健康という単語を結びつけるのはダッハウ・ビルケナウという固有名詞や「死の天使」と呼ばれた男を知っている人間にとってはあまり容易ではないかもしれないが、「金髪碧眼の完全なるアーリア人」による「千年王国」建設がナチズムの目指した到達点であることを考えれば両者がイコールによって結合するのもおわかりいただけるのではないかと思う。
 
 従って「完全なるアーリア人」を追い求めるがゆえにナチスは禁煙に熱心であり、ガン対策に力が注がれ、食生活における着色料の使用を制限するといったエコ政策を推進することになる。
1920年代の終わりにはウラニウム採掘労働者は肺ガンの労災補償を受けており39年には因果関係が断定されたのに対し、アメリカで放射線被曝者補償条例が可決されたのは1991年。
この2005年、日本では石綿(アスペスト)問題が持ち上がっているがそこから遡ること62年、1943年にはナチス政府はアスペストに起因する中皮腫と肺ガンを労災と認定して補償対象としている。
また喫煙と肺ガンの因果関係を最初に証明したのもナチ政権下で「非アーリア人は雇用しない」と定められていた研究所(1941年のホルスト・ヴェストナーによる論文や1943年のエーバーハルト・シャイラー/エーリヒ・シューニガー論文など)。
 
 これで終わればそれこそ「ナチズムも悪いばかりではない」で済むのだが、しかしことはナチズムである。
果たしてこの健康志向は、軍需の急増と高い生産性を持つ労働者が求められる内外情勢もあって
 
病気を排除しよう

工場から病人を排除しよう

病院から病人を排除しよう

病人をこの世から排除しよう
 
という非人道的な(もっとも、個人的には"いかにもナチズム的な"といった方が正確なのではないかと考えるが)恐るべき論理的発展を遂げる。
アウシュヴィッツのI・G・ファルゲン工場の例をみると、入院者は全労働者の5%と定められておりこれを越えると医師による選別の後にビルケナウを潜らされ、ある熱烈な反タバコ派学者は同時に地域の病院をまわっては精神障害患者を殺すよう医師に強く勧める"安楽死"推進者の先鋒であり、また高質の労働者を求める姿勢の裏返しとしての「無用のごくつぶし駆除」のため、「望ましからざる人種の繁殖防止」にX線を使うのはどうかという案が提出されることもあった。
 
 上記の引用文中にもあるが、あのダッハウ強制収容所は世界有数のハーブやスパイスの栽培所も兼ねていたという一見不可解で、まことに奇怪なねじれとでも呼ぶべき事実が「ナチズムの厚生政策」をもっとも端的に表しているものではないだろうか。
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